千葉県野田市破魔弓販売 2019年

上原人形 破魔弓販売中

 

魔障を払い除くという神事用の弓のこと。元来はハマとよぶ神占(かみうら)に起源のあることば。破魔矢とともに正月の年占(としうら)を行う競技具。現在でも神事として残っている所もあるが、遊戯として分布している地域は広い。直径20センチメートル、厚さ2~3センチメートルの板、竹やつる草を輪にしたもの、藁(わら)を円座のように円く編んだものなどを、空中に投げ上げ、また地上を転がしたりして、そこを矢をもって射たり突いたりするので、その成否が卜占(ぼくせん)ともなり、また遊戯となった場合には勝負となるわけである。

男児の初正月に細長い板に弓矢を飾り付け、その下に押し絵を貼(は)ったものを祝い品として贈り物とするハマユミや、初詣(はつもう)でに開運の縁起を祝って神社から授けられるハマヤ、また新築の際の上棟式に鬼門の方角に向けて棟の上に立てる弓矢もハマユミ、ハマヤとよぶようになったことは、もともと当て字であった「破魔」の字が、この傾向を助長したと考えられる。

 

野田市情報

野田市は、面積103.55平方キロメートル。地形的には、市の最北端部で利根川、江戸川が分流し、東を利根川、西を江戸川、南を利根運河によって、三方を河川に囲まれる市となります。この堤防上を一周すると約60キロメートルあり、サイクリングコースとして、散歩やジョギングなどにも最適の自然環境です。

野田市市民憲章(1980年(昭和55年)5月3日制定)

  • 郷土の自然を愛し、平和で安全な環境を守ります
  • たがいに助け合い、すべての市民の幸福を願います
  • からだをきたえ、仕事に励み、楽しい家庭をつくります
  • きまりを守り、信頼と愛情を深め、心豊かな社会を築きます
  • 教養と文化を高め、自由と希望に満ちた郷土をめざします

江戸時代、野田(旧野田町地域)は天領や旗本の知行地で野田には支配者としての武士階級の者が住むことはほとんどなかった。したがって江戸時代の教育を支えた藩校といった教育機関もなく、幕末を別にすれば寺子屋といったものもあまりなかったとみられる。著名な学者を生んだとか学者が住んだというような歴史もなくごく平凡な農村地域であった。江戸時代の旧野田町地域は、教育が進んだ地域ではなく、読み書きができたのは村役人や僧侶、医者、浪人など限られていたとみられる。幕末には全国の傾向と同じく野田にも庶民に教える寺子屋が多くできたが、その大半は僧侶や医者が教えるもので、何を教えたのかについては不詳であるものの、わかっているものでは基本的な読み書きやそろばん算術など、女子には裁縫などを教えていたものとみられる。それに対して関宿地域は関宿藩の領地で武士も住み、武士の子弟の教育のため藩校も開かれ、それを教えるために学者も招かれていた。関宿では旧野田地域とは違い、武士ばかりではなく優秀であれば百姓町民も学ぶことができたようである。

明治5年明治政府は学校制度の整備を始め、全国を8大学区256中学区53760小学校区にわけそれぞれに小学校を設けることにした。野田では明治6年の愛光小学校(これはすぐに野田小学校と改名し、さらに大口寄付者の名により茂木小学校と改名する)が開校するなど明治5年から8年にかけて小学校が次々と開校していった。しかし初期の教育制度は未整備で学校制度は様々な試行錯誤を重ねていく。